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バングラデシュ(Bangladesh) .bd

首都 ダッカ (156 万) (Dhaka)
 国際電話番号 +880

 南アジアの国; 公式名 バングラデシュ人民共和国。国土面積 144,000 km2。人口 147,365,352人(2006)。1971 年独立, 旧 東パキスタン East Pakistan。
 国名のバングラデシュは Bengali・ベンガル人の国ということです。この説明を見たサイトはリンク切れになっています。インドにはベンガル州というのがあり、人種的には同じらしいです。ではそのベンガルというのは何か? 意味には行き着かなかったのですが、カナダの英語協会みたいなものの機関誌らしいものの中で、 バンガロー: Banglowの語源が Bengali-styleの houseだということがわかりました。Wikipediaによると、はっきりはしないけど、この地域に BC 1000年頃に住んでいたドラビダ語の民族に Bangというのがあったということです。もう一つ、南太平洋に"Bonga"という太陽神を意味することばがありということです。また、マハーバラタとかによると、Vangaというのは バンガ王国を築いた Vali王の息子の名前だということです。イスラムの方では ノアの息子の Hindの息子が Bongだそうです。ノアはキリスト教とイスラム教と共通です。資料としては805年 Nesari Platesというのに、Vangalaの王の名前として Dharmapalaが挙げられているそうです。このころはパラ王国 Palaというのがあって、Dharmapalaは世界遺産として残るPaharpur遺跡の Viharaという仏教寺院だか修道院を築いたようです。この地にイスラム教が入ってきたのは13世紀以降のようです。
 大昔を言うと、BC 3000年くらいからベンガル地域には文化の痕跡があり、最初はアルパイン文化 Alpineが栄え、その中の民族に Vangaも居たようです。その後、アーリア人の侵入が始まりますが、BC 4世紀まではくい止めていたようです。それどころか BC 544年にはスリランカを征服し、シンハラという名前を与え、マドラスとかインドネシア群島にも植民していたようです。
 アレキサンダー大王の東進も、このあたりで抵抗が強く、ついに引き返したということです。
 その後のグプタ帝国 Guptaとかゴーダ王国は必ずしもバングラデシュの地というわけではなく、インドとも言える地域ですが、ベンガル人の国だったようです。次ぎに仏教の王国としてパラ Palaが出現し、8世紀から12世紀にかけて安定した繁栄をしていたようです。このパラ王国がチベットやブータン、ミャンマーに仏教を広めたようです。8世紀後半にマレー半島、ジャワ島などに栄えたサイレンドラ帝国 Sailendraの王朝もベンガル人だったようです。その後に短期間ですがヒンズー教の Sena王朝ができます。
 12世紀になるとイスラム教徒の侵入がはじまり、席巻します。これがトルコ系だったのかその後、トルコ系の王朝ができます。Wikipediaの記述はゴチャゴチャと人名、インドにまたがる地名が出てきて相互関係がわかりにくいので、このあと飛ばしてムガール帝国の時代、15世紀後半になってヨーロッパ人がオランダ人、フランス人、イギリスの東インド会社などが続々とやってきます。17世紀にムガール帝国がポルトガル軍を壊滅させたり、イギリス軍を追い払ったりしますが、欲に目がくらんだか?カルカッタなどをイギリスに売り渡したりしてイギリスに地歩を築かせます。イギリスはついにはほかのヨーロッパ人を駆逐して、1857年には東インド会社という軍隊を持った国家みたいな会社がバングラデシュ、パキスタンも含めたインド全域を支配するという妙なことになります。これが百年も続くわけですが、いろいろと問題が起こるようになり1858年には総督を置いての直接支配になります。
 19世紀末から20世紀初めにかけて独立運動が芽生えます。これが多分に宗教的要素を持っていたことを利用しようとイギリスは宗教による分割統治を試みます。これは 7年間しか続きませんでしたが今日のパキスタン、インド、バングラデシュが形作られる伏線にはなったようです。その後も独立の動きは続き、イギリスは名誉ある撤退を求めて提督・マウントバッテン郷を送り込みます。いろいろ暴力事件が起こり、ヒンズー教徒とイスラム教徒との間で相互に非難合戦になりますが、日本でもよく知られるインド独立の英雄・チャンドラボース等がインドと二つに分かれたイスラム教の国・パキスタンに別れて独立するという案に辿り着き、1947年に実現します。パキスタンは当初はベンガルという国名だったようです。
 マウントバッテン郷はドイツの王族の血をひく貴族ですが、太平洋戦争の終戦前後に連合国軍の東南アジア最高司令官でしたが、当時進行中だった東京裁判を念頭に「軍は純粋に政治的な性格の裁判にかかわるべきでない」と主張し、日本の戦争指導者を戦犯裁判にかけることに反対を表明した、ということが、2005年4月に公文書から分かったようです。これがほんとに反対意見なのかぼやけてますが。東京裁判が軍事法廷の延長線にあるのか国際法廷なのか、多分に前者だったのでしょう。
 こうして成立したパキスタンですが、当初から東パキスタン側は西パキスタン側が主動する政府に利用されるだけという感覚を持ち、言語(東パキスタンはウルドゥ語 Urdu、東パキスタンはベンガル語 Bengali)、文化の違いもあって対立に終始します。1970年の選挙で東パキスタンでは分離独立派が全議席を占め、中央政府と地方との権限分担についての話し合いが始まりますが、東の独立運動は激しくなるばかりで、1971年3月、パキスタン軍が東の政府要人を逮捕します。大部分はインドに逃れ、インドの支援を受けて東パキスタン軍が反乱し独立を宣言します。そして1972年、国名をバングラデシュに改めたというわけです。
 これで一件落着というわけではなくて今度は内部が大変で一党独裁になったり、クーデターで殺されたり、暗殺もありで、発足以来、民主主義の時代は全部で 4年間しかありません。2006年に山猫ストライキが続発し、鎮圧で流血をみましたが 2007年には一応、軍政は終わったらしいです。まだ前途多難でしょう。
 国旗の地色の緑はバイタリティーと若さを、真ん中の赤は日の出と独立のために流した血を意味しているそうです。
 バングラデシュの文化に関しては、佐納康治というの大学の先生の旅行記があるので紹介しておきます。コンピュータとか情報の教授のようですが、世界中、旅をされています。
バングラデシュの画廊(英語 歪んだ画像も新しいウィンドウで開くときれいになります。刺繍する女性の画像がきれいです。その右は婚礼衣装です。)
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