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ブラジル(Brazil) .br

首都 ブラジリア (35 万) (Braslia)
国際電話番号 +55

 公式名 ブラジル連邦共和国
   República Federativa do Brasil
 国土面積 8,514,877km2。人口 188,078,261人(2006)。ポルトガル系白人, 黒人, 白人と黒人との混血が大多数. 言語: ポルトガル語 Portugueseですが、インディオ原住民の言語も残っていて、半ば公用語になっている地域もあるようです。ドイツ、イタリアからの移民も、それぞれ、一種の方言を形成しているようです。日本語も稀には聞かれるということです。宗教: カトリックが大部分. 通貨: レアル Real。1993年まではクルゼイロ cruzeiro: 南十字星という意味です。Realの方は英語にすると Royalで王室の、とか高貴な、という意味です。
 この地には少なくとも 8,000年前から人が住んでいたということですが、このインディオと呼ばれる人々がどこから来たのかについては二つの説があります。一つはアメリカインディアンと同じく、ベーリング海峡が出来る前、アジア大陸とアメリカ大陸が陸続きだった頃にシベリアから渡って来たというものです。もう一つはそれより古く、アフリカやオーストリアの原住民に似た人々が居て、シベリアからの移住者に吸収されたというものです。
 アンデス山脈の西側ではインカ帝国などの文明の跡がありますが、山脈に阻まれて東側のブラジルについては、ほとんど遺跡とか記録とかいったものが無く、ポルトガル人が来る以前のことはよく分からないようです。ただ、既に全土にわたって百万人以上のインディオが住んでいたということです。しかし、それらの人々は虐殺に遭ったり、疾病にやられたり奴隷労働で移住させられたりして、本当の原住民はアマゾンの奥にわずかに残る程度のようです。
 ブラジルに最初に来たヨーロッパ人は 1500年 ペドロ・アルバレス・カブラル Pedro Álvares Cabralと言うことになっています。異説もあるようですが。当初はポルトガル政府はこの地に興味はなかったのですが、列強が侵略しはじめて、金のかからない統治方法として貴族達に土地を分割して与えて、統治させようとしたのですが、あまりうまくいかなかったようです。
 国名の元ともなったブラジルウッドは 100年くらいで採り尽くし、17世紀にはサトウキビがブラジルの経済を支えます。このための労働力としてインディオを使ったのですが、何の理由でか?奴隷に適しないということになり(アメリカインディアンも奴隷には使われませんでした。誇り高い民族なんでしょう)、アフリカから数百万の奴隷を連れてきました。その奴隷たちの死亡率はひどいもので、男女比も悪く人口を維持できなかったようです。奴隷の中には逃亡して遠隔地の小さな王国みたいなのを作るといってこともありましたが、20年とは続かず、軍隊に殲滅されます。とは言え、アフリカ人がブラジル人口のかなりの部分を占めるようになりました。
 列強については 1555年から1567にかけてはフランスがリオ・デ・ジャネイロを 1612年から 1614年にかけてはサン・ルイス São Lusに植民しようとします。オランダは1604年から1661年にかけて、かなり海岸地帯を占拠します。最終的には撤退します。文化的にはフランスとオランダはあまり影響していないようです。
 その後の歴史で面白いのはナポレオンの時代、ポルトガル本国の侵略に際して宮廷がリオ・デ・ジャネイロに亡命して、1808年から1821年にかけてアジアからアフリカにかけての帝国の首都になっていたことです。ナポレオンのほとぼりが冷めて ヨハンVI世が帰国すると、長男のペドロが摂政として残り、1年後には本国に「独立にあらずんば死を」と最後通牒をつきつけて独立を宣言し、ブラジルのペドロI世として即位します。彼は庶民には割と人気があったようですが、リベラル過ぎるとか過ぎないとかで政争があり不行跡(嫡出以外に9人の子供がいたようです。)もあって1831年には五歳の息子を置いて退位してポルトガルに帰ります。その息子が1840年にペドロII世として王位に就き1889年まで宮廷政治を敷きます。
 1889年に軍によるクーデターが起き、国名をブラジル合衆国 Republic of the United States of Brazilにします。1967年まではそうでした。今はブラジル連邦協和国 Federative Republic of Brazilです。その後 1930までは立憲民主主義の政府でした。この頃からサトウキビの栽培に代わってコーヒー栽培が経済を押し上げるようになり、イタリアやドイツからの移民が多くなります。この時代が古き共和制 "Old Republic"です。
 1930年に軍事クーデターが起こり、民間人のゲツリオ・バルガス Getúlio Vargasを大統領に起用します。彼は1954年に自殺するまで、1930-1934年の間、議会選による大統領だった時期を除いて 1945年まで独裁制を敷きます。その後第二共和国と呼ばれる民主制の時代が1964年まで続きますが、彼は上院議員として指導的な立場にありました。彼は高い理想ももっていて「内陸部の地域振興を通じた国土全体の均衡ある発展」の理念のもと、ブラジリアへの首都移転を定めたのは 1946年のことです。1960年には新首都が完成します。

 その後は民主制が続くのですが、大統領 ジョアン・ゴウラール João Goulartは社会経済の改革に取り組み1964年には軍のクーデターがあり、1985年までは軍政が敷かれていました。1985年に民政移管が行われ、間接選挙で大統領が選ばれ、なぜか宣誓の前に死に、副大統領が繰り上げになります。直接選挙による大統領選挙が初めて行われたのは1989年です。

 国名の意味は、「1500年ポルトガル艦隊がインドに向けての航海中に上陸。赤色染料の材料ブラジルウッド(和名ブラジル・スオウ)の林があった。ブラジルの語義はポルトガル語のbrasa 赤熱した炭火 で、赤色のニュアンス。」だということです。これはほかの英語のサイトなどでも確かめられます。もともと、ポルトガル人が最初に入植した時はサンタ・クルズの地 Terra de Santa Cruz、つまり聖十字架の地と呼んでいたということです。
 国旗の、緑は森林資源と農業、黄は鉱物資源、天体を模した円の中の南十字星はじめ27の星はブラジリアと26の州を表し、白い帯が何であるかいろいろ議論がありますが、要するに Ordem e Progresso 英語に直せば order and progress、つまり「秩序と発展」という文字を書くためのようです。

国立民族博物館展示・ブラジルの祈祷師の衣装>ブラジル大使館

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