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セルビア・モンテネグロ (Serbia and Montenegro)  .cs

首都 ベオグラード (94 万) (Belgrade)

国際電話番号 381 ヨーロッパ南部 Balkan 半島にある国; Serbia, Montenegro, Vojvodina, Kosovo からなる。人口 10,662,087人(2000)。国土面積 102,350 km2。Serbia はセルビア人 66%, アルバニア人 17%, Montenegro はモンテネグロ人 68%, イスラム系 13%, アルバニア人 6%. 言語: Serbian, Albanian. 宗教: セルビア正教, イスラム教, カトリック。 通貨: dinar。
 旧ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国からクロアチア Croatia、スロベニア Slovenia、ボスニア・ヘルツェゴビナ Bosnia and Herzegovina、マケドニア Macedonia の各共和国が分離独立した残りが現セルビア・モンテネグロです。ベオグラードの人口は周辺の都市域を含めると170 万です。
 昔の .yuの方をよく見かけます。 .csがあることを発見したのは04/Aug/01です。まだ、実際に使われたのは見かけませんが。コソボ紛争を抱えていますが、コソボは Kosovoとも Cosovoとも表記されます。どうもコソボのために用意されたドメインのような気がします。コソボの独立が本物になればセルビア・モンテネグロはもとの .yuのドメインに戻るのではないでしょうか? セルビア・モンテネグロのために新しいドメインを作るとすると、Sで始まるドメインはほとんど満杯で国名から連想できるドメイン名にするのは難しそうです。 .smはサン・マリノですし。07/02/17 セルビアモンテネグロも新しいドメインを獲得したのを発見しました。 .yuのドメインは借用期限までは共用するようです。また、".cs"のドメインはもともとはチェッコスロバキア (Czeco Slovakia)に与えられていたドメインのようで、これがチェッコ (Czech)に変わるについて廃止されたものだと分かりました。そのため、ちょっとした不都合があるようです。
 旧ユーゴスラヴィアが、分解してセルビアとモンテネグロだけで、1992年に社会主義民主共和国区連邦から単なる共和国連邦に変えてユーゴスラビアの名称はそのままでしたが、国際社会からは相次ぐ内戦や旧ユーゴスラビアの負債の処理などの関係で認められずにいましたが、2000年にようやく認められました。2002年4月、現在の国名に改めました。連邦よりももっと緩やかな結びつきで対外関係だけを共同にするという関係のようです。政治、行政の首府はセルビアのベオグラードで、司法の首府はモンテネグロのポドゴリカ Podgoricaになっています。セルビアはさらにヴォイヴォデイナ Vojvodinaという自治州と、内戦のため国連の管理下にあるコソボ Kosovoを抱えています。
 結局、セルビアモンテネグロは独立して、それぞれ RS、MEというドメインになりましたから、CSはコソボということになりそうです。まだ確認していませんが。
 それぞれに歴史の違う地方を抱えているため、分けて説明した方がよさそうです。その前に、6世紀から7世紀にかけてポーランド方面からスラブ人の部族が南下して、ビザンチン帝国の一部になっていたバルカン地域に移住しました。そのスラブ人は大きく6つの部族に分かれていました。その中でセルビアとモンテネグロは RasciaとかRas_kaと呼ばれる同じ部族だったようです。ところが、セルビアはだいたいにおいて平野でモンテネグロは山深いという地形条件もあって異なる文化も持つようになりました。

セルビア
 最初にセルビア人の国が出現したのは10世紀中頃のようです。いくつか変遷があってローマ法王から王の称号を得たりした国もありますが、1168年頃に Rasciaの王朝が成立し、1499年にオスマン・トルコに征服されるまでセルビアの黄金時代を築き、帝国として、つまりバルカン地域ほとんどの国を従えていました。この全盛期の1389年にオットーマン・トルコとコソボで戦って皇帝も含めて多くの貴族が死んで敗れたのですが、この戦いが多くの伝説、詩を産み、かつてはセルビア王国のセルビア正教会の中心であったこともあって、コソボはセルビア人の心のふる里になりました。このことがコソボ紛争を複雑にする大きな原因になっています。日本のサイトにはコソボが1168年のセルビア王国の発祥の地である、と述べたものがいくつもありますが、英文ではコソボを含むという記述しか見つかりません。出所が同じなのかも知れません。
 トルコ軍は1867年までベルグラードに居座るのですが、1804年、1815年には革命がはかられ、自治権を拡大します。1829年にはギリシャが独立し、セルビアは半独立国として認められました。1877年にはロシアとともにトルコに挑み、完全独立を勝ち取ります。そして1882年、オブレノヴィチ家のミラン Milan Obrenovicを押し立てて王国を宣言します。オブレノヴィチ家は1815年の反乱を率いた指導者ですが、もう一つ、カラジョルジェ家 というのがあってこちらは1804年の方の指導者の家系です。この二つの家の間で暗殺があったり、王位も行ったり来たりします。
 両家はオブレノヴィチ家がオーストリアハンガリーにつき、もう一方がロシアの後ろ盾としてヨーロッパの政争に巻き込まれていきます。1908年にはボスニア・ヘルツェゴビナがオーストリア・ハンガリーに併合され、反対したセルビアはあやうく、細切れにされるところでしたが、ロシアの後ろ盾が効いて事なきを得ました。
 ですが、1914年、ボスニアのサラエボでハプスブルグ家のフェルディナンド皇太子夫妻をセルビア人が暗殺し、これを契機にオーストリア・ハンガリーはセルビアに宣戦布告、セルビアにはロシアが付き第一次世界大戦の勃発となります。善戦も空しく1915年全土が占領されます。敗残の軍はマケドニアに逃げ込みます。
 ところが、1918年にはドイツ側に参加していたブルガリアが降伏し、占領地は回復
され、加えて11月25日にはヴォイヴオディナ Vojvodinaとモンテネグロ、二日遅れてオーストリア・ハンガリーの支配下にあったクロアチアとスロベニアもセルビアに加わることを決定します。こうしてユーゴスラビアが形成されました。
 セルビアはセルブ人 serbの地という意味ですが、serbが何を意味するかはネットで探しても見つかりません。語源がわからなくなるくらい古い名称のようです。

モンテネグロ
 セルビアは内陸国で平たいところですが、モンテネグロは山深く、アドリア海に面していて、気候的にもセルビアが夏は暑く冬は寒いというヨーロッパ気候なのに対してモンテネグロは特に南部はおだやかな地中海気候に恵まれています。モンテネグロの名称はイタリア語ヴェネツィア方言、ヴェネト語ともいうらしいですが、意味は黒い山、多分、Monteが山で Negroが黒というのは容易に想像がつきます。自国ではツルナ・ゴーラ(Црна Гораと呼び、英字では Crna Goraですが、意味は同じだそうです。
 モンテネグロの歴史はローマ時代のダルマティア Dalmatia地方にスラブ民族が南下してきた中世の始めから始まります。10世紀にはドゥクリア公国 Duklja(ラテン語だとDocleaのようです。)として半独立の状態になり、ビザンチン帝国への朝貢国としてですが、法王から王国と認められています。その王はセルビア貴族出身でした。その王家が後にセルビアの王も産んでいますので関係が深いのは間違いないところです。コソボなどの人権侵害で悪名高いセルビアのミロシェビッチ大統領も、もとはと言えばモンテネグロ人です。
 1360年には今日のモンテネグロに近いゼータ王国 Zetaが出来て、この国はオスマン・トルコの時代にも完全には征服されませんでした。モンテネグロという名前になったのは16世紀に神権政治の時代のようです。いろいろ変遷はありますが独立国として1862年には単独でトルコと戦って負けますが、今度は1876年にはセルビアが、1878年にはロシアも加わってベルリン条約で領土も獲得します。ただし、アドリア海の港への軍艦の出入は禁止でオーストリアが管理するという条件ですけど。
 第一次世界大戦、モンテネグロはオーストリア軍のセルビア侵攻時、時を移さず宣戦布告して頑強に抵抗し一時はボスニアのサラエボまで押し返したりしますが、最後には1916年、蹂躙されます。国王はフランスに亡命政府をつくりますが、セルビアがオーストリア軍を押し返すとセルビアは敵と妥協をはかったとして帰国を認めず、1918年、モンテネグロはセルビアに属することになりました。そしてユーゴスラビア王国が形成されたわけです。その王は亡命したモンテネグロ王のニコラス王の息子です。その王はモンテネグロを別の国とすることには反対していました。
 第二次大戦中は共産主義のパルチザンがナチに抵抗して戦後はモンテネグロの独自性を尊重して、連邦の中のモンテネグロとなりました。その後、ユーゴスラビアが崩壊するまでは、旧・ユーゴスラビアのページで述べています。
 ユーゴスラビアからクロアティア、スロベニア、ボスニア・ヘルツェゴビナが抜けたあとも国名を保っていましたが、2003年、モンテネグロの主張により国名はセルビア・モンテネグロに改められて、ゆるい連邦になりました。しかし、2006年に予定されている国民投票では完全独立が選択される可能性が大きいようです。

コソボ
 コソボの面積は10,887 km2で、人口は約 2百万です。その昔を言うと、イリュリア人と呼ばれる人々がギリシャの北方にいて、その中のアルバノイという部族が時代の流れの中でイリュリア人全体がアルバニア人ということになりました。そしてローマ時代はその版図に入るのですが、そこにスラブ人が南下してきてセルビアなどの国を打ち樹てました。そのとき、コソボはアルバニア人が取り残される感じだったようですが、セルビア王国の圧迫が厳しく、南に逃げてイスラムに改宗します。今度はオスマン・トルコがセルビアを圧迫しはじめます。そしてコソボの戦いでセルビアが敗れて、停戦にこぎつけようとするところで死んだふりをしていたセルビア人がオスマン・トルコのムラト1世を殺してしまい、セルビアは王をはじめ多くの貴族が殺されました。当然、セルビア人も迫害されて殺されるか逃げ出すかして、その跡にムスリムになったアルバニア人が戻ってきたわけです。そして現在の総人口 1,970,000、そのうちアルバニア人が 88%、セルビア人が 7%、ほか、ムスリムのスラブ人 1.9%、ロマ人(ジプシー)1.7%、トルコ人 1%という人口構成になったわけです。
 全体の中での少数派のアルバニア人と、コソボの中での少数派のセルビア人との対立は、チトー大統領の体制の中では何とか収まりがついていたのですが、ユーゴスラビア崩壊とともに、コソボの独立を目指す武装集団・コソボ開放戦線 KLAが現れ、1995年ごろからセルビア人を迫害し、エスニック・クレンジング、つまり民族浄化 ethnic cleansingという事態が発生しました。民族浄化というのは、セルビア人の男は皆殺し、女にはアルバニア人の子を産ませろ、というものです。
 結果、1998年、コソボ開放戦線はアメリカから「テロ組織」と非難されることになり、ミロシェビッチ大統領は掃討作戦を開始し、アルバニア人が追いつめられます。すると NATOが介入してセルビアを空爆し、ここで自暴自棄になったセルビア人の一部が今度は逆の民族浄化をするという事態になりました。何とか停戦に持ち込み、そこで初めて国連が遅ればせながら、監視団を送ってコソボを国連保護領
としました。
 コソボはセルビア人はコッソボと発音し、アルバニア人はコソーヴァと発音するらしいです。Kosovoの Kosはスラブ語で「クロドリ」が語源らしく、Kosovo Poljeというセルビア語はドイツ語ではAmselfeldで、「クロドリの野」だということです。ヨーロッパからアジアにかけて広く分布しているようで、インドの民話に女房を連れ去られたクロドリの亭主がクルミのカラの半分をカブトに、残り半分を戦いの太鼓にして「ランパンパン」、と出陣というのがあります。あまり大きくはなさそうです。声がいいので王さまが家来に捕まえさせたのですが、鳴くのは亭主の方です。というわけでコソボが頭につく地名はベラルーシ、ボスニア、ブルガリア、ロシアにも何十カ所もあるようです。ブラックバードといっても真っ黒が典型的ですけど赤とか黄色混じりもいます。大きさは23.5 cm-29 cmで小鳥としては大型でしょう。

 セルビア・モンテネグロの国旗は新ユーゴ連邦の創設に伴い、王政時代の国旗に戻ったもので、青は澄みわたる空を、白はまばゆく輝く光明を、赤は尊い血の犠牲を表わす、ということです。
 セルビア・モンテネグロの文化に関しては、佐納康治というの大学の先生の旅行記があるので紹介しておきます。コンピュータとか情報の教授のようですが、世界中、旅をされています。
セルビア・モンテネグロ大使館
ヨーロッパの地図 (番号で表示してありますので、右上の表を見てください。

↓セルビア・モンテネグロの地図