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旧・ユーゴスラビア(Yugoslavia)
(Serbia and Montenegro)  .yu
現・セルビア・モンテネグロ

首都 ベオグラード (94 万) (Belgrade)

国際電話番号 381

 ヨーロッパ南部 Balkan 半島にある国; Serbia, Montenegro, Vojvodina, Kosovo からなる。人口 10,662,087人(2000)。国土面積 102,350 km2。Serbia はセルビア人 66%, アルバニア人 17%, Montenegro はモンテネグロ人 68%, イスラム系 13%, アルバニア人 6%. 言語: Serbian, Albanian. 宗教: セルビア正教, イスラム教, カトリック、 通貨: dinar。旧ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国からクロアチア Croatia, スロベニア Slovenia, ボスニア・ヘルツェゴビナ Bosnia and Herzegovina, マケドニア Macedonia の各共和国が分離独立した残りが現セルビア・モンテネグロです。いや、2006年5月21日、モンテネグロでの国民投票で僅差ながら分離独立が選択され、今はセルビアがユーゴスラビアの後継国家ということになっています。ベオグラードの人口は周辺の都市域を含めると140 万です。
 昔の .yuの方をよく見かけます。 .csがあることを発見したのは04/Aug/01です。まだ、実際に使われたのは見かけませんが。
 このページではにユーゴスラビアの国名ができ、2003年に無くなるまでのことを記述することにします。
 1914年、オートリア・ハンガリー帝国に属していたクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナの政治家と、オブザーバーとしてのモンテネグロ王国の代表も加わって、セルビア政府の代表とイタリアのフローレンスで南西部のスラブ人の統一国家の建設に向けての会談をしました。
 ユーゴスラビアというのは Yugoが南で、南スラブ国という意味ですが、オーストリア・ハンガリーの支配に倦んだ西の地域の人々、東の地域の人々も世界大戦のもたらした混乱から免れるためにも、それぞれの愛国心、ノスタルジアを振り捨てて、この新しい国を作る考えを支持するようになり、1917年に新しく連合王国をつくる宣言が署名されました。
 そして、1918年、第一次世界大戦が終わってオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊すると、南スラブのスロベネ Slovene、クロアツ Corats、セルブ Serbsなどの連合国が形成され、すぐにセルビア、モンテネグロが加わってセルブ、クロアツ、スロベネ王国も統一されて、宣言は成就したかに見えました。
 ところが、1921年、中心となっていたセルビアの議会でクロアチアのボイコットを無視してベルグラードの王政に権力を集中する憲法を制定しておかしくなりました。1928年、モンテネグロのセルビア人の国粋主義者がクロアチア農民党の党首を射殺、国王はこれを口実に憲法を停止し、完全王政を布告しました。そして、初めてユーゴスラビア王国と命名し、国民はすべてユーゴスラビア人ということになりました。不人気の国王は1934年、フランスのマルセーユ訪問中に暗殺されました。
 第二次世界大戦が始まり、ドイツ、イタリアから枢軸への参加を迫られ、1941年3月25日、摂政は結局日独伊の三国同盟に署名します。これがまた国民に不人気で、軍部が25日にクーデターを行い、摂政を追放し、17才の王子を王位につけます。どうやってもダメだったのでしょうがヒットラーはこれに怒りギリシャと同時にユーゴスラビアにも侵攻することを決定しました。ヒットラーはここで手間取ってソ連侵攻のバルバロッサ作戦は1月ちかく遅れました。
 そして1941年4月、ドイツ、イタリア、ハンガリー、ブルガリアが攻撃を開始し、11日で抵抗は終わりました。そしてユーゴスラビアは分割され、クロアチアは傀儡政権に、セルビアとスロベニアはドイツが占領、ほかはブルガリア、ハンガリー、イタリア、それにアルバニアも加わって進駐しました。
 抵抗勢力は王政派の軍とチトーが率いる共産軍の国民解放軍に分かれて抵抗しました。解放軍は占領地域での最大勢力になっていきます。王政派の方は次第に支持を失っていきます。抵抗に対してドイツは大量殺戮で報復し、人口の10%ちかくが失われました。
 共産軍に率いられるパルチザンは解放地域に事実上の政府を形成し、1943年11月連邦形成の基礎となる国民解放委員会がされます。そして1944年にはセルビアから、1945年には全土を解放します。アメリカを含む西側はパルチザンと王政派の再統合を図り、いったんは合意ができますが、国民的英雄であるチトーに人気が集まり、権力を握ることになります。そして1980年に亡くなるまでユーゴスラビアをまとめてきました。
 ユーゴスラビアの国家形態はソ連と似て、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、マケドニア、モンテのグロ、セルビア、スロベニアがそれぞれ憲法を持った共和国になり、その上にチトーの連邦議会があるという仕組みになっていました。
 チトー時代のユーゴスラビアの特徴はソ連との間に距離をおき、西側、東側と等距離外交を行ったことです。1963年に国名をユーゴスラビア社会主義連邦共和国と改名し、チトーが終身大統領になりました。チトー大統領は政敵を容赦せず、中には暗殺された人もありましたが、ともかくユーゴスラビアは一つの国として機能していました。もちん、個々の共和国の自治拡大の要求は消えず、1970年から1971年にかけてクロアチアの学生運動が盛り上がり、鎮圧したわけですが、憲法は1974年に改正されて自治権が拡大されました。これが後になって解体を容易にすることになりました。
 1980年、チトー大統領が死去すると、民族主義が頭をもたげ、ストライキなどが起こり、対して新しく台頭したのがセルビア出身のミロシェビッチで、彼は拡大された自治権を元に戻すことを主張してスロベニア、クロアチアと対立します。結局、1990年にソ連が崩壊すると、1991年、スロベニア、クロアチアは独立を宣言し、1992年にマケドニアが続き、ボスニア・ヘルツェゴビナもこれに続きました。いずれの国も国内にセルビア人がいて反対派を抱えていました。そして血を血で洗う争いが始まります。最初にスロベニアで、1991年にはクロアチアで、1992年にはボスニアで衝突が起こりました。ついに1991年11月、国連の安保理で平和維持軍の派遣を決定しました。
 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は1992年4月28日にユーゴスラビア連邦共和国が形成された時点で存在しなくなりました。この時点ではスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナが抜けて連邦と言えるかどうか?という感じですが。西部での内戦は1995年にアメリカが主導して何とか終了しましたが、数年たって1998年にはコソボのアルバニア人が形成するコソボ解放軍が行動を起こし
、ややこしいことになりました。コソボ紛争の始まりです。結局、NATOが介入して、いまのところは、問題をかかえながらNATOが治安を維持しています。
 ミロシェビッチ大統領のとった強硬な非人道的な弾圧政策は国際的ばかりでなく国民の中にも不人気となり、2000年9月の選挙での敗北を拒絶するという挙に出たため、大規模デモを誘発し、ついに体制は崩壊します。ミロシェビッチは逮捕され、国際裁判にかけられています。2002年3月、セルビアとモンテネグロは連邦制度をもっとゆるやかにすることを決定し、国名をセルビア・モンテネグロと改めました。ここにユーゴスラビアという国名は完全に消滅しました。2002年4月のことです。そして2006年5月21日、モンテネグロで国民投票が行われ、 55.5%が独立賛成、44.5%が反対という僅差で独立ということになり、ユーゴスラビアは跡形もなくなりました。モンテネグロは.meというドメインを、セルビアは .rsというドメインを獲得しています。しかし、まだしばらくの間は .yuは使われるようです。
 国旗は1943年、チトー率いるユーゴスラビアが独立した時のものです。基本的にナチに抵抗したパルチザン時代のもので、星の角張りとか大きさが少し変わっただけです。青、白、赤はロシアに代表的に見られる汎スラブ色です。青は澄みわたる空を、白はまばゆく輝く光明を、赤は尊い血の犠牲を表わす。ということです。星の紋章の意味はわかりませんでしたが、07/02/19に調べたところによると、紋章は無いのが正しいようです。
ユーゴスラビアについて叱られるほど簡単にまとめてみる(このページの地図が無断リンクされていますが、別の視点から面白くまとめてあります。)
ヨーロッパの地図 (番号で表示してありますので、右上の表を見てください。)
セルビア・モンテネグロ大使館

↓ユーゴスラビアの地図

 セルビアの中でボイボディナ Vojvodinaが区切られていますが、ここはオスマントルコにユーゴスラビア全体が組み込まれた時代に一時、1526-1527年にほぼ独立国になったことがあり、また、1849年から1860年にはオーストリアの王領になっていたことがあって、今も自治権の大きいところです。コソボのような宗教問題はないので多分、紛争の種にはならないと思いますが。