韓国の地名と地図検索を作成していて、林慶業碑が旧跡として江原道の雲南近くにあるのが何なのか調べてみました。ネットでは実に様々な記述が見られます。
 まず見つかったのはTour2Korea.comのページで、下のような記述があります。

全羅南道 順天市 楽安面
紹介
 楽安(ナガン)邑城(ウプソン)民俗村は全羅南道・順天市楽安面の18000坪の広い敷地に建てられた邑城。城内にある東内里、南内里、西内里にある100数戸の住宅には現在も住民が生活しており、城郭も原形そのままに保存されています。ここでは南部地方特有の住居様式を見ることができ、この地方の特徴がよく表れた台所や土間、縁側などを見ることができます。また、重要民俗資料として指定された9棟の家屋と多くの藁葺き家が建っています。
 他にも正門として使われている東門(楽豊楼)を過ぎてまっすぐ伸びる道に沿って行くとある林慶業将軍(1594〜1646)の碑閣や資料館も見所のひとつ。毎年陰暦の1月15日にはここで祭事が行われ、板跳び、ブランコ、城郭めぐりなどのイベントなども行われています。

 しかし、これは江原道の雲南よりははるかに南で、林慶業碑は少なくとも 2つあることになります。さらに忠烈祠として、
 史跡第189号である忠烈祠は朝鮮時代の楽宗王治世23年目の1697年に建てられました。忠愍公(贈り名) 林慶業 将軍(1594-1646)の位牌を祭る祠堂(位牌を安置するところ)です。林慶業 将軍は朝鮮時代の宣祖王治世27年目(1594年)、忠州の大林山の麓の村で生まれ、光海君(朝鮮時代の第15代王)治世10年目(1618年)武科に合格し、仁祖王治世2年目(1624年)、李グァルが反乱を起こした時、鎮圧して大きな功績をあげました。忠烈祠には30余点の遺品を持つ展示館と達川 忠烈祠碑などがあります。
丁卯胡乱と丙子胡乱が起きた時、白馬山城と義州城などを建てて国防強化に尽力を尽くすなどたくさんの手柄を立てましたが1644年沈器遠 の謀反の罪を受け、官職を剥奪、54歳で亡くなりました。死後、名誉を回復され、1706年楽宗王治世、忠愍という贈り名を、1727年(英祖王3年目)に忠烈祠という扁額を与え、管理を遣わして春秋に祭司を行わせました。
1791年(正祖王15年目)には王が自ら文章を書いて与えたものが御製達川忠烈祠碑 です。1978年に改修され、忠烈祠から3.5?の忠州市のプ洞には忠清北道記念物第67号に指定されている林慶業 将軍の墓域が約200坪規模で造られています。
所在地: 丹月洞 385-1
という記述があり、韓国に数多い忠烈祠の一つにもなっています。李グァルが反乱の反乱に関しては「図説 韓国の歴史」 1988 金両基 河出書房新社に、
 朝鮮朝後期の下層民衆の最初の大きな抵抗は、仁祖元年(1623)の「李○(イファル)の乱」であろう。漢城(ソウル)が一時陥落したほどのこの乱は、奴婢層が呼応し、それが主流となったものと考えられる。壬辰倭乱以後、階級間の矛盾が急激に深化し、賎民(奴婢)は自衛のために秘密結社をつくった。仁祖年間(1623-49)、南原を中心に全羅南道地方に急速に広がった殺人契(サリンゲ・契は利害を共有するものの集団)の動きはその代表的なものである。両班層は彼らからの報復攻撃に備えるため、東莱(釜山)から日本の銃を輸入して自己防御につとめ、殺人契員の報復を恐れて、両班が殺害された場合にも官に告発することさえもできなかった。
 また1629年、西北地方(平安道・黄海道)の平民流浪民と賎民流浪民が中心となった明火賎(ミョンファチョン)集団は、漢城を攻略した。彼らは両班のいない平等な社会を実現しようと14ヵ条の社会改革案を作成し、奴婢の良人化や権勢家の農場没収などを求めた。17世紀中葉にも下層平民や賎民の抵抗は激化した。1646年に起きた忠清・全羅道の民乱である林慶業の乱がそれである。林慶業将軍が募軍起兵するとの旗幟のもとに私奴と平民1000余人が集まった。

 とあり、林慶業は乱を鎮圧もすれば乱の首魁にもなっています。李ファルの反乱に関しては、「また林慶業は、李ファルの反乱鎮圧で一等功臣となり、清の侵略者と劇的な戦いを挑んだ将軍として、軍談小説「林忠臣伝」などに描かれた。」という記述があり、侵略軍に対する戦いであったようです。
 清との戦いについては、
 丙子胡乱として、 1636年(仁祖14)12月〜1637年1月に清の第2次侵攻で起こった朝鮮と清の戦い。
1627年後金の朝鮮に対する第1次侵入(丁卯胡乱)の際、朝鮮と後金は兄弟之国の盟約をし両国関係は一段落した。しかし1632年後金は満洲全域を席巻し明の北境を攻撃しながら、両国関係は兄弟之国から君臣之義に変わることと黄金・白金1万両、戦馬三千匹など歳幣と精兵3万を要求した。更に1636年2月龍骨大(英俄爾岱)・馬夫太(馬福塔)らを送り朝鮮の臣事を強要したが、仁祖は後金使臣の接見さえ拒絶し、八道に宣戦諭文を出し、後金と決戦する意志を固めた。
1636年4月後金の太宗は皇帝を称して国号を清に変え、朝鮮が強硬な姿勢を見せるや、王子・大臣・斥和論者を人質として送り、謝罪しなければ攻撃すると脅した。しかし朝鮮は主和論者よりは斥和論者が強く清の要求を引き続き黙殺した。
12月2日このような朝鮮の挑戦的態度に憤慨した清の太宗は、清・蒙古・漢人で編成した10万の大軍を自ら率いて首都瀋陽を発ち、9日鴨緑江を渡り攻め込んできた。義州府尹林慶業は白馬山城(義州)を固めて清軍の侵入に備えたが、先鋒将馬夫太はこの道を避けソウルに進撃した。13日には朝廷では清軍の侵入事実を知り、14日清軍は開城を通過した。
朝廷では急遽判尹金慶徴を検察使に、江華留守張紳を舟師大将に、沈器遠を留都大将にし江華・ソウルを守備させた。また原任大臣尹ムと金尚容に宗廟社稷の神主と、世子妃・元孫・鳳林大君・麟坪大君をはじめとする宗室を江華に避難させた。14日夜仁祖も江華へ避難しようとしたが既に清軍により道をふさがれ、昭顕世子と百官を率いて南漢山城に逃れた。仁祖は訓錬大将申景モ轤ノ城を固めること命じ、八道に勤王兵を募集するよう檄文を発し、明に急使を送り支援を請うた。しかし16日清の先鋒軍は南漢山城を包囲し、1637年1月1日太宗が到着し、南漢山城下の炭川に20万の清軍を集結させ、城は完全に孤立した。
城内には軍士1万3千名が節約すれば50日ほど持ちこたえられる食糧があり、義兵と明の援兵は期待できないので清軍との決戦は不可能であった。さらに城外には清軍がいわれもない百姓らを殺して略奪行為をほしいままにし、母親は陣中に捕らわれ、その子供は寒い路上に捨てられ、ほとんどすべてが飢えや寒さで亡くなった。
特に丙子年(1636)は非常に厳しい寒さが長く続き、露営した将帥や軍士は寒さと飢えで気力が尽き病気になって凍え死ぬ者が増えた。このような状況で城内では崔鳴吉ら主和派と金相憲ら主戦派の間に論戦が繰り返されたのち、講和論が優勢になり、ついに城門を開き降伏することにした。清の太宗は朝鮮の降伏を受け入れる条件として、まず仁祖が自ら城外に出て降伏してから、両国関係を悪化させた主謀者二、三名を捕らえ引き渡すことを要求した。折しも江華島が清により陥落したという情報が入り、やむなく崔鳴吉らを清側に送り降伏条件を交渉させた。1月28日に清軍は龍骨大・馬夫太を送り次のような講和条約条項を提示した。
@清国に対する君臣の礼を守ること、A明の年号を廃し関係を断ち、明からもらった誥命・冊印を差し出すこと、B朝鮮王の長子・第二子及び大臣の子弟を瀋陽に人質として送ること、C聖節(中国皇帝の誕生日)・正朝・冬至・千秋(中国皇后・皇太子の誕生日)・慶弔などの使節を明の例に従うこと、D明を討つ時、出兵を要求すれば断らないこと、E清軍が帰る時兵船50隻を送ること、F内外諸臣と婚姻を結び和好を固くすること、G城を新築したり城壁を修築しないこと、H己卯年(1639)から一定の歳幣を送ることなどである。
1月30日仁祖は世子など扈行500名を引きつれ城門を出て、三田渡に設置された受降壇で太宗に屈辱的な降礼をした後、漢江を渡り還都した。清は盟約に従い昭顕世子・嬪宮・鳳林大君らを人質にして、斥和の主謀者洪翼漢・尹集・呉達濟ら三学士を捕らえ、2月15日撤退し始めた。ここに朝鮮は完全に明とは関係を断ち清に服属するようになった。このような関係は1895年日清戦争で清が日本に敗れるまで続いた。戦後には多くの雇馬の収養問題と数万に及ぶ(ある記録には50万)拉致された人々の贖還問題が出てきた。特に清軍は拉致した良民を戦利品と見、贖価を多く取れる宗室・両班の婦女をできるだけ多く捕らえていこうとしたが、大部分の捕らえられた人々は贖価を用意できない貧しい人々であった。贖価は安い場合1人当り25〜30両で、大概150〜250両であって、身分によっては高い場合1,500両に及んだ。贖還は個人・国家すべてがその財源を用意することが大変なことであった。ここで殉節できず生還したことは祖先に対し罪になるといって、贖還士女の離婚問題が社会・政治問題として持ち上がった。1645年10年の人質生活を終え世子と鳳林大君は帰国したが、世子は2ヶ月で亡くなった。仁祖のあとを継いだ孝宗(鳳林大君)は人質生活の屈辱を噛み締め、北伐計画を推進したが思いを遂げることはできなかった。
という記述も見えます。功績の有無にかかわらず清に立ち向かった将軍なのでしょう。 また、リンク切れですが、
http://japanese.wonju.go.kr/wonjuinfo/wonjuinfo04.aspには 林慶業(1594〜1646). 号は孤松、富論面谷里で生まれ1618年武科に及第、奸臣金自點の計略にはまり殉職した後、 忠愍公という諡号を得る。[関連遺跡: 林慶業将軍追慕碑〈富論〉]という記述が見え、これもまた、リンク切れですが、
http://japanese.wonju.go.kr/wonjuinfo/wonjuinfo04.aspには、 忠愍公(贈り名) 林慶業 将軍(1594-1646)の位牌を祭る祠堂(位牌を安置するところ)です。林慶業 将軍は朝鮮時代の宣祖王治世27年目(1594年)、忠州の大林山の麓の村で生まれ、光海君(朝鮮時代の第15代王)治世10年目(1618年)武科に合格し、仁祖王治世2年・・・
 少し変わったところではベヨンシングッという巫俗の儀礼の紹介として下の記述があります。
2人の巫堂(ムーダン)が演じるベヨンシングッのコミカルな狩りの場面
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ベヨンシングッ(クッまたはグッとは韓国の巫俗儀礼のこと)は、豊漁と漁村の繁栄を願う巫俗儀礼で、音楽、歌、パントマイム、象徴的儀式など、あらゆる芸術要素が総合的に組み合わされています。
 ベヨンシングッは、韓国の西海(黄海)沿岸地域で行われる豊漁と海の安全を祈願する漁師の儀式です。通常は、巫堂(ムーダン:シャーマンのこと)が船上または海岸で儀式を執り行います。同時に、村の祭り(デトングッ)の役目も果たしており、昔は村人も参加していました。重要無形文化財第82号に指定されましたが、近代化によって村の祭りとしての人気は薄れています。
演じられている地域/場所
ベヨンシングッは、延坪(ヨンピョン)島、甕津(オンジン)、海州(ヘジュ)、居昌(コチャン)、霊光(ヨングァン)などを中心とする韓国西部沿岸地帯で伝承されてきました。しかし現在では、韓国中西部の延坪島を中心に維持されています。
芸能の基本要素

音楽、舞踊、演劇
詳細

世襲の僧が執り行う東海岸と南海岸の漁師の儀式とは異なり、西海岸のベヨンシングッは基本的に巫堂によって行われるのが特徴です。巫堂はトランス状態の中で霊的なメッセージを伝えたり、多くの超自然的な技を見せたりします。さらに、人々の関心を高めるために、儀式の進行には娯楽的要素も盛り込まれています。狩人、老爺、老女ヨンサンのシーンは、他の地域には見られない、ユニークで面白いものです。このような巫俗的な娯楽は、儀式から演劇への移行段階を示唆しているという点で重要な意味を持っています。
ベヨンシングッの儀式では、進行は、神堂(シンダン)の神を呼び出す儀式、村の守り神に挨拶する儀式、邪悪な力を追い払う儀式、神による憑依に続き、神々の絵の前での礼拝、豊作の神、山の守り神、家庭の守り神、年寄りのヨンサン、先祖を含め他のあまり有名ではない神々を祝う儀式が行われ、最後に、海を治める龍神に捧げる川辺の儀式が行われます。儀式の合間の余興として、村人が祝いの歌を歌ったり、幸運を呼び込むために巫堂の衣装をまとった礼拝者が踊ったりします。
ベヨンシングッは、豊漁を願い、船と船乗りたちの安全を祈る船の所有者の後援により行われます。村の神堂の守り神としてあがめられる主神は通常、林慶業(イムギョンオップ)将軍です。将軍は、生前の魚にまつわる偉業にちなんで死後に巫俗の神になりました。ベヨンシングッの芸術としての質は、様々な巫堂の音楽、歌、踊り、パントマイムや、色鮮やかな旗、衣装、花飾りなどで決まります。山から海岸までの広い地域で演じられ、素晴らしい見ものとなっています

とあり、また、「大きなかぶ」はなぜ抜けた? [編]小長谷有紀には
■現実に関わって姿を変えていく民話
として、 民話とは場所、土地を越えて伝播していくものである。しかも無数の民衆を媒介にしており、特定の個人が関わった痕跡を持たないため、いざ分析するとなると厄介な対象である。
 本書が扱うのは、ヨーロッパから中央アジア、中南米に到るそれぞれの地域で伝承される民譚である。いずれも蓄積ある第一線の研究者たちが絵解き、口承文芸、シャーマニズムなど、それぞれの領分から存分に技量を発揮している。
 民話はもともと国家に縛られない、というのが本書の基調である。この性格は時に、その民話の素材となった主人公の思惑すら超えてしまう。収録論文のひとつに登場する「漂泊の武将・林慶業」が明末清初の複雑な東アジア情勢を背景に数奇な運命に翻弄されながら、故国・李氏朝鮮の儒教的な「忠君」という枠組みを越えて、雨乞いの神へとその姿を変えていく過程はその好事例であろう。その信仰の担い手となった人々が中国東北部の満族自治県に住む朝鮮族の故老たちであることは、おのずから帝国主義下の日本、さらには中国・ロシアのはざまで異郷での生活を余儀なくされた時代との対照を浮き彫りにする。民話とは絶えず眼前の切実な状況と連関しながら変容していくものなのだ。

という記述も見え、漁業の神ばかりでなく、雨乞いの神にもなっています。

 こうして見たところ、林慶業 将軍は侵略軍に立ち向かい、「漂泊の武将」と呼ばれるように、多くの地に足跡を残し、平民の側にたって戦った人物で、最後はいわれなき罪により非業の死を遂げるという何とも判官贔屓の心を捕らえるところのある英雄としての人物像が描けます。というわけで、林慶業碑とか忠烈祠があちこちにあるのでしょう。